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河内国一之宮 2神社(大阪府) [近畿]

2016年6月14日

河内国(かわちのくに)は現大阪府内になり、およそ淀川以南の大阪府東部と言える。北東部では京都府(山城国;やましろのくに)に、東部では奈良県(大和国;やまとのくに)に、南部では和歌山県(紀伊国;きいのくに)に接し、西部は大阪市から泉南郡岬町までの浪速国(なにわのくに;のちに摂津国(せっつのくに))、和泉国(いずみのくに)に接する内陸部と言える。
この河内国には「一之宮」が2社存在するため、その2社を紹介する。

<枚岡神社(ひらおかじんじゃ)>
<片埜神社(かたのじんじゃ)> 

2015年10月19日

2015-10-19_0002.JPG枚岡神社(ひらおかじんじゃ)>(河内国一之宮)大阪府東大阪市出雲井町7番16号

旧社格:官幣大社

主祭神:天児屋根命(あめのこやねのみこと)
    比売御神(ひめみかみ)
    経津主命(ふつぬしのみこと)
    武甕槌命(たけみかづちのみこと)

2015-10-19_0010.JPG2015-10-19_0009.JPG平岡神社(ひらおかじんじゃ)は大阪府東大阪市出雲井町にあり、神社としては大きな構えとなっている。
主祭神の天児屋根命(あめのこやねのみこと)は、日本書紀では天照大神が天の岩戸に隠れ、外の騒ぎが気になって天の岩戸を少し開けたところ、太玉命と共に鏡を差し出したとされる。また、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が”天孫降臨”する際に、お供に加わっていたともされている。更には、中臣(なかとみ)氏の祖神ともされ、当社も中臣氏と縁のある神社とされているようである。
比売御神(ひめみかみ)天児屋根命(あめのこやねのみこと)の后神(奥さん神)とされているが、詳細はよくわからない。
経津主命(ふつぬしのみこと)は千葉県香取市にある香取神宮の主祭神としても有名で、天児屋根命(あめのこやねのみこと)武甕槌命(たけみかづちのみこと)とともに”天孫降臨”に参加し、”国譲り”を達成する。刀剣の神とされているが、他説もある。
武甕槌命(たけみかづちのみこと)は茨城県鹿嶋市にある鹿島神宮の主祭神であり、やはり”天孫降臨”に参加して”国譲り”を達成させている。雷神であり剣の神。

2015-10-19_0003.JPG枚岡神社の解説板では「神気満ちみちた境内 河内国一之宮 平岡神社 「御由緒」 当社は紀元前六六三年に、神武天皇の詔(みことのり)によって、現在地の東方、霊山と崇める神津嶽(かみつだけ)に、天児屋根命、比売御神の両神がお祀りされ、白雉元年(650)に現在地に神殿を造営し、山上より遷祀されたわが国有数の古社です。 奈良の春日大社創建に際して、両神が分祀されたことから、春日の元宮とも称えられ、その後、経津主命、武甕槌命が合祀され、四棟並列の美しい枚岡造の御殿が完成いたしました。 「延喜式」では名神大社として祈年・月次・相嘗・新嘗の各祭に官幣を奉られ、殊に春冬二回、勅使を遣わされる等、朝廷より最高の優遇を受け、先の大戦まで官幣大社に列していました。 主祭神の天児屋根命は、祭祀を行なって天の岩戸開きをされたことから、神事を司る神さまとして称えられ、除災招福・開運厄除けのほか、幅広い信仰を集めており、社叢は全国「かおり風景百選」に認定されております。 太古より受け継がれて来たこの聖域には、神気が満ちみちています。この大いなる神気をいただかれ、皆様方の内なる気が蘇り、元気で幸せでありますよう願っております。」と書かれていた。

2015-10-19_0011.JPG2015-10-19_0013.JPG写真は「なで鹿(神鹿)」と言い、その解説には「なで鹿(神鹿) 御祭神 武甕槌命(たけみかづちのみこと)様が神鹿に乗って旅立たれた故事(鹿島立;かしまだち)にちなみます。 弘化三年(1846)、名工 日下の小平次作で左右の親鹿が仔鹿を優しく育んでいます。 健康と家族の平安、子供の幸せ、旅行の安全等を念じて撫でてください。」と書かれていた。

 


2016年5月27日

2016-05-27_0081.jpg片埜神社(かたのじんじゃ)>(河内国一之宮)大阪府枚方市牧野阪2丁目21ー15

旧社格:郷社

主祭神:建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)
    櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)
    八島士奴美神(やしまじぬみのかみ)
    菅原道真公(すがわらみちざねこう)

片埜神社は、京阪電車「牧野駅」を下車し、東に300mほど歩いた「牧野公園」の隣に位置する。牧野公園は桜の名所としても有名なようだが、その昔、征夷大将軍「坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)」と戦った蝦夷(えみし)の大将「阿弖流為(あてるい)」とその副官「母礼(もれ)」の塚もある。同塚については私の別ブログ「雑記帳」の「古代”蝦夷(エミシ)”の首塚」で触れているのでご参照戴ければ幸いである。
公園側から当社に入ろうとすると「片埜神社東門」の解説板が目に入る。つまり公園側の入口は正門ではないのである。解説板には「片埜神社東門(府指定文化財) この門は棟門(むねもん)でした。棟門は平安、鎌倉時代の寺院の総門(そうもん)や大邸宅の表門に用いられ、「むなかど」とも呼ばれています。 左右に円中を立て、その上に水平に冠木(かぶき)が通り、梁(はり)の上にのせた蟇股(かえるまた)の中ほどまで円柱が延びています。扉は桟唐戸(さんからと)を用います。控柱(ひかえばしら)を用いず築地塀(ついじべい)に密着させて門柱をささえるので、地震や台風などで倒れる危険があり現存するものは数少なくなっています。のちに改められて小型の四脚門(しきゃくもん)となりましたが、室町時代の様式を伝承しており、府内でもこの時代としては数少ない遺構(いこう)の一つです。2015年1月 枚方市教育委員会」と説明されていた。

2016-05-27_0080.jpg正式には写真のように、こちらが表門となるようである。
2016-05-27_0083.jpgそして境内には当社の祭神一覧が掲示されていた。大変失礼ではあるが、当社の規模に見合わないような祭神の数に少々困惑したが、Wikipediaの説明では明治時代に近隣の神社をある程度整理して当社に合祀したために、祭神が増えてしまったようである。


2016-05-27_0087.jpg境内に祀られている「依姫(よりひめ)社」の説明版にもそれを匂わす説明が記載されていた。曰く「依姫社 一、御祭神 玉依姫命 神武天皇の御母君・下賀茂神社の神様 大国主命 大己貴命・出雲の大黒様・国土守護神 市寸嶋姫命 安芸宮島の大神・弁天様・芸能上達の神様 一、明治初期、境内の玉依姫神社・大国主神社・市寸嶋姫神社 それぞれのお社を依姫社に合祀申し上げて今日に至る。」とのこと。恐らく明治政府なり、地方行政機関なりからのお達しがあって整理したのではないだろうか。と、勝手に想像している。
「依姫社」の三柱の神々は、時代・背景が異なり、どう見ても関連性が見えないのである。


 


越後国一之宮 3神社(新潟県) [甲信越]

2015年8月19日

越後国一之宮は3つある。
以下について順次紹介する。 

<天津神社(あまつじんじゃ)>
<居多神社(こたじんじゃ)>
<弥彦神社(いやひこじんじゃ)> 

1508190004.JPG天津神社(あまつじんじゃ)>(越後国一之宮)新潟県糸魚川市一の宮1-3-34

旧社格:県社

祭神:瓊瓊杵命(ににぎのみこと)
   天児屋根命(あめのこやねのみこと)
   天太玉命(あめのふとだまのみこと)

1508190008.JPG境内は広かったが、拝殿の後ろに本殿と境内別社があるだけの簡単な構成の神社だった。駐車場は境内の脇にあったが、特に仕切りを設けたものではなく、舗装もなされていない、どこに停めても自由といった感じだった。
朝8:00頃到着したためか、境内は人気もなく閑散としていた。

1508190002.JPG当社に設置された「説明」によれば、「説明 神社名 天津神社 一ノ宮を俗称す 祭神 瓊瓊杵命 天児屋根命 天太玉命 境内別に奴奈川神社あり奴奈川媛命 八千矛命を祀る 鎮座地 新潟県西頸城郡糸魚川町大字一ノ宮 人皇第十二代景行天皇の御宇の創設に係り人皇第三十六代孝徳天皇の勅願所たりと云い伝へ延喜式内社の一ならむと推〇せらる 社殿はもと山崎の地に在りしを山崩れのため此の地に移し造営したりと伝ふ この地方は往昔沼川郷と称し奴奈川媛命の棲みましし處八千矛命が遠く海を渡りてこの地に上陸せられ媛と契らせ給へりと云う史〇と御二方の間に生まれましし建御名方命が姫川の渓谷を辿りて信濃路へ進ませられ遠近を開拓統治し給へりと云う伝説とに徴すれば此の地は神代に於て国津神の威武を内外に発揚し給へる重要な基地たりしを想察するに足る ただ神社名が天津神社と呼ばれ境内別に奴奈川神社の存するは後世天神地祇其の處を換えたるに依るならむか 女神像四體 掛佛 古面 舞楽装束等を〇〇す 春季大祭は四月十日(昔は三月十日)秋季例祭は十月二十四日(昔は十月十日)執行せらる 大祭に神輿渡御の盛儀あり壮観多く匹〇を見ず 舞楽十二曲あり俗に「ちごの舞」と称し大祭当日演舞せらる (以下判読不能)(文中の「〇」は判読不能文字)と書かれていた。
1508190009.JPG「説明」の文中にもある通り、境内の本殿隣に「奴奈川神社(ぬなかわじんじゃ)」があり、「奴奈川媛命(ぬなかわひめのみこと)」八千矛命(やちほこのみこと;大国主命(おおくにぬしのみこと))」が祀られているが、八千矛命(大国主命)が当地にやって来た祭に当地にいた奴奈川姫命を見初め、後に信州を開拓した建御名方命をもうけたとしている。

当社(天津神社)の祭神3柱は、何れも天孫降臨の主要神で、瓊瓊杵命は天照大神の孫で天孫降臨の主人公であり、初代天皇の神武(じんむ)天皇は曾孫(ひまご)に当たる。また、天児屋根命は主要な従者の1人で、中臣(なかとみ)氏(後に藤原氏を輩出)の祖神とされており、天太玉命は忌部(いんべ)氏(後に斎部(いんべ)氏となる)の祖神とされている。

1508190014.JPG居多神社(こたじんじゃ)>(越後国一之宮)新潟県上越市五智6丁目1-11

旧社格:県社

主祭神:大国主命(おおくにぬしのみこと)
    奴奈川姫命(ぬながわひめのみこと)
    建御名方命(たけみなかたのみこと)

1508190017.JPG当社は綺麗に整備され、その拝殿、本殿なども近年建直されたかのように見えた。それとは対照的に対をなす狛犬はかなりの古さを感じさせるものだった。

祭神の3柱は、上の「天津神社」の別社に登場した大国主命夫妻とその子建御名方命とされている。恐らく、その昔上越、糸魚川地区に共通の奴奈川姫伝説があり、その結果関係する神を祀ったのではないだろうか。尚、天津神社では奴奈川神社を別社としていることから、天孫降臨の神々を祭神にした天津神社は、奴奈川神社より後に創建され、奴奈川神社と一緒にしたのかも知れない。とにかく、大和朝廷の正規の神々の方がエライ訳だから、ローカルの神々などは格下なのだろう。

1508190016.JPG境内に建てられた解説板には「越後一の宮 居多神社 祭神 大国主命 奴奈川姫 建御名方命 祭典 例祭 五月三日 講社大祭 八月十九日・二十日 由緒 弘仁四年(813)に従五位下を、貞観三年(861)に従四位下を朝廷から賜わった。延長五年(927)の「延喜式(えんぎしき)」神名帳に記載された式内社である。越後国司・越後守護上杉家・上杉謙信の厚い保護を受け、越後一の宮として崇敬されてきた。今日、縁結び・子宝祈願の神として信仰されている。 宝物 居多神社文書・狛犬(上越市指定文化財) 親鸞聖人御旧蹟 親鸞聖人日の丸御名号・御詠歌 越後七不思議「片葉の芦(かたはのあし)」 境内社 雁田神社 祭神 高皇産霊神(たかみむすびのかみ)・神皇産霊神(かみむすびのかみ) 子宝・安産の神 稲荷神社 祭神 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)(商売繁昌の神)」と書かれていた。

1508190019.JPG1508190020.JPG上の解説に書かれていた「親鸞聖人 越後七不思議 「片葉の芦」」の説明には次のように記されていた。

「親鸞聖人 越後七不思議 「片葉の芦」 承元元年(1207)専修念仏(せんじゅねんぶつ)の禁止により、親鸞聖人は越後国府に配流となった。 居多ヶ浜に上陸した親鸞は居田神社に参拝し、 すゑ遠く法を守らせ居多の神 弥陀と衆生のあらん限りは と詠み、神前に供え、はやく赦免となりますようにと祈願したところ、一夜にして居多神社境内の芦が片葉になったという。」

1508190022.JPG弥彦神社(いやひこじんじゃ)>(越後国一之宮)新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦2887-2

旧社格:国幣中社

主祭神:天香山命(あめのかごやまのみこと)

1508190034.JPG当社は正に”一之宮”という雰囲気が漂う、3社の中では一番立派で綺麗に整備された神社だった。恐らく旧社格が「国幣中社」ということからも、昔から朝廷や政府(第二次世界大戦前までの)の手厚い保護がなされて来たのではないかと想像する。また、社殿が比較的新しく見えたが、これは遷座して100年ということによると思われた。

1508190023.JPG当社解説板には次のように記されていた。「越後一宮 名神大社 彌彦神社 祭神 天香山命(あまのかぐやまのみこと)(亦の〇〇・・・) 御祭神は天照大御神の御曾孫で天孫降臨に供奉して降り紀州熊野に住み神武天皇御東遷の時霊剣を奉りて大功をたて〇後北辺鎮護国土開発の勅令を奉じて越路に降られ、住〇を尊〇禮耕漁業を始め諸産業を〇〇地方文化産業の基を開かれた大祖神である。 されば多く衆人その徳を仰いでこの地に社を創建し崇敬の誠を捧げた古社であり、遠く万葉集には彌彦の神をたたえ、平安期の初め神殿の顕著により名神の列に加わり神階を授けられ、延喜式に名神大社と記す。鎌倉幕府三千貫の社領を寄せ、上杉謙信神助を祈り、徳川氏また五百石の朱印地を奉る。 明治四年国幣中社に列し、皇室を始め衆庶の崇敬極めて篤く明治十一年明治天皇が、昭和四十七年には天皇・皇后両陛下、昭和五十六年皇太子・同妃両殿下がご参拝になる。 昭和二十二年宗教法人となり神社本庁に属する。(文中の「〇」は判読不明文字)

1508190025.JPG1508190029.JPG先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)」では、天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫の饒速日命(にぎはやひのみこと)と天道日女命(あまのみちひめのみこと)との間に生まれたのが天香山命(あめのかごやまのみこと)で、尾張氏の祖神としている。
日本書紀(にほんしょき)」で、母の天道日女命は神武天皇が東遷した時(「神武東遷(じんむとうせん)」;「神武東征(じんむとうせい)」という言い方もある。)に抵抗した長髄彦(ながすねひこ)の妹としている。(関 裕二「なぜ饒速日命は長髄彦を裏切ったのか」PHP研究所刊)
「神武東遷」についてここでは略すが、その後天香山命は勅命(ちょくめい;天皇(神武?)の命令)で越国(えつのくに;最初は「越前」「越中」「越後」が1つの国であった。)の開発を行ない、祖神として崇敬されたのである。


信濃国一之宮 諏訪大社(上社、下社)(長野県) [甲信越]

2015年8月5日

諏訪大社(すわたいしゃ)>(信濃国一之宮)
上社 前宮、本宮
下社 春宮、秋宮

旧社格:官幣大社

諏訪大社は諏訪湖の周辺に4箇所の社を持つ、珍しい神社である。主に南部にある「前宮(まえみや)」「本宮(ほんみや)」「上社(かみしゃ)」といい、北部にある「春宮(はるみや)」「秋宮(あきみや)」「下社(しもしゃ)」という。
7年に1回行われる御柱祭(おんばしらさい)」でも有名な、御柱が各社の四隅に立てられている。

中央道の諏訪ICから近い上社2社(前宮、本宮)、そこから諏訪湖沿いを北方向に向かうと下社の2社(春宮、秋宮)となる。現代の感覚では、北が”上(かみ)”、南が”下(しも)”と考えがちだが、昔は都(みやこ)に近い方が”上”、遠い方が”下”と言ったようだ。

2015-08-05_0002.JPG<上社>「前宮」長野県茅野市宮川2030

主祭神:建御名方命(たけみなかたのみこと)
    八坂刀売之命(やさかとめのみこと;建御名方命の妃

他の3社より規模が小ぶりで、派手さもない。しかし、それ故に素朴さが残されている感じだ。

2015-08-05_0004.JPG鳥居を潜ると石段があり、右手に諏訪明神の祖霊がやどるといわれる御神宝が安置されていたとされる「内御玉殿(うちみたまでん)」があり、
2015-08-05_0025.JPG左手には中世まで諏訪祭政の行われた政庁の場である「十間廊(じゅっけんろう)」があった。
2015-08-05_0015.JPG2015-08-05_0010.JPG石段を上り、その先の田舎道のような坂道を進むと「上社前宮本殿」が現れる。解説板によれば「前宮とは上社本宮に対し、それ以前にあった宮の意味とも考えられている。前宮の祭神は、建御名方命(たけみなかたのみこと)と、その妃(きさき)八坂刀売之命(やさかとめのみこと)と古くから信じられ、ここ前宮の奥に鎮まるところが墳墓と伝えられる。古来より立ち入ることが固く禁じられ侵すときは神罰があるといわれた。四方には千数百年の歴史を有する御柱が七年毎に建てられ、現在の拝殿は昭和七年に伊勢神宮から下賜された材で造営されたものである。 昭和四十九年五月 安国寺史友会」と記されていた。

2015-08-05_0013.JPG2015-08-05_0011.JPG
本殿の脇を流れる小川の所には「名水「水眼(すいが)」の清流 古くから”すいが”と呼ばれ、山中より湧出する清流は、前宮の神域を流れる御手洗川となり、昔からご神水として大切にされた。中世においては、この川のほとりに精進屋を設けて心身を清め、前宮の重要神事をつとめるのに用いたと記録されている。この水眼の源流は、これより約一キロメートルほど登った山中にあるが、昭和五年に著名な地理学者・三沢勝衛先生によって、はじめて科学的調査がされ、その優れた水質は「諏訪史」第二巻に取り上げられている。昭和五十三年八月 安国寺史友会」と記された解説板が立てられ、綺麗な水が流れていた。
2015-08-05_0016.JPG御柱は4本中、3本が確認できた。写真は「前宮一之御柱」である。

2016-01-03_0011.JPG<上社>「本宮」長野県諏訪市中洲宮山1

主祭神:建御名方命(たけみなかたのみこと) 

参道が整備され、その両側には土産物屋などが立ち並んでいる。境内も多くの参拝客で賑わうのが想像に難くない広さと整備のされ方だった。
2016年1月3日に再度当地に来た時に撮影した。始めの訪問時(2015年8月5日)とは打って変わっての冷え込みに、カメラを構える手も震え気味だった。

2015-08-05_0034.JPG2015-08-05_0033.JPG実は、8月に当地を訪れた際は、本宮の表参道から訪問した訳ではなく、駐車場に近い裏門(?)から境内に入った。正面には回廊のような独特な「入口御門」から「布橋」が作られていて、なかなか独特の雰囲気を醸していた。入口脇に建てられた立札には「入口御門 文政十二年(1829)建立上社宮大工棟梁である原五左衛門親貞とその弟子藤森廣八が構築し巧微な彫刻が施されている」と書かれていた。

2015-08-05_0036.JPG2015-08-05_0035.JPG入口御門の脇にある「大欅(けやき)」には「大欅(樹齢約千年) 古くは贄(にえ)・御狩(みかり)の獲物(お供物)を掛けて祈願をしたことから「贄掛けの欅」と呼ばれ境内最古の樹木のひとつである」と書かれた立札があった。

2015-08-05_0038.JPG大欅と入口御門の間に”本宮二之御柱”が建てられている。後で見る”本宮一之御柱”とともに2本のみ確認することができた。この”御柱”は山から大木を切り出し、大社の四隅に建てるのであるが、大木の上に勇壮な若者達が乗って山の斜面を滑り下りる所から、「御柱祭」として有名になっている。この”祭”、7年に1度しか行われないため、その奇祭を一目見ようと全国各地から多くの見物客が押し寄せる。図らずも2016年は、”御柱祭”の年に当たっており、また多くの人出で賑わうであろう。

2015-08-05_0040.JPGこの御柱祭で御柱に使われる「メド梃子(でこ)」が布橋の途中左側に展示してあった。その説明では「名称「メド梃子(でこ)」 この「メド梃子」は、平成22年庚寅年に執り行われました諏訪大社上社式年造営御柱大祭の「本宮一之御柱」に使用されたものです。 御柱の面から長さ五メートル、直径二十五センチ余で、材質は楢の木を使用しています。取り付け角度は、八十度、左右のメド梃子にそれぞれ七人の若者が乗り、先端につけられた「命綱」によってバランスを取りながら曳行します。 乗り手を務める若者は、足掛けロープにつま先を懸け、片手で手懸けのロープに命を託し、一方の手には「おんべ」を振りかざし祭の音頭を取ります。「命綱」についた若者は、曳行中、左右に振りながら、また障害物等があればそれをさけるためにどちらかに振り、舵取りの役目をします。油断のできない重要な役割を担っています。 当地区は、四月の「山出し」、五月の「里曳き」とも同サイズのメド梃子を使用していますが、地区によっては、場所によって十二人乗り位の長い物を使用するところもあります。 平成二十二年庚寅年 諏訪大社上社本宮一之御柱 担当地区 湖南中洲御柱祭典委員会と書かれている。

2015-08-05_0046.JPG2015-08-05_0045.JPGその少し先、やはり左側に出雲の大国主命を祀る「大国主社(摂社)」があった。説明では「大国主社(おおくにぬししゃ)(摂社) 御祭神 大国主命(おおくにぬしのみこと) 例祭日 五月十四日 諏訪大神の御父神である大国主命を祀る社で 古事記によれば諏訪大神「建御名方神」は大国主命の第二子と記されている」と書かれていた。

2015-08-05_0055.JPG2015-08-05_0056.JPG布橋を出ると境内上段の入口となり「幣拝殿」の前に出る。諏訪大社4社は基本的に”本殿”を持たず、本宮では守屋山をご神体としており、下社 春宮はスギの木を、下社 秋宮はイチイの木をご神体としている。唯一上社 前宮のみ本殿を持っている。そのため、ご神体をお参りするのは拝殿からということになる。

2015-08-05_0058.JPG2015-08-05_0057.JPG拝殿に向かって右側に「勅願殿(ちょくがんでん)」があり、勅願とは天皇の祈祷という意味だが、当社では御祈祷を行う場所となっている。幣拝殿が大社の恒例祭典や重要神事を齋行して国家安泰並公事の祈願を執行する場所であるのに対して勅願殿は個人私事の祈祷を行う場所である。(勅願殿説明版より)

2015-08-05_0059.JPG境内下段に下りると目に入って来るのが”本宮一之御柱”である。

2015-08-05_0065.JPG2015-08-05_0064.JPG御柱の反対側には「高島神社(たかしまじんじゃ)」がある。説明の立札には「高島神社(たかしまじんじゃ) 御祭神 諏訪頼忠公 大祝中興の祖・諏訪藩祖 諏訪頼水公 大祝高島藩初代藩主 諏訪忠恒公 高島藩二代目藩主 例祭日 九月二十三日 (本来の例祭日は九月二十三日だが)最近は八月十二日に神裔のご参列のもと例祭を執行している 諏訪氏は当大社の御祭神 諏訪大神の子孫で上社最高の祀職大祝となり更に藩主として政治を行った この祭政一致の形態は往古より続く諏訪の特徴である 御祭神は江戸時代初期における高島藩中興の藩主三代の御遺徳を尊びお祀りしている」と書かれていた。


2015-08-05_0069.JPG<下社>「春宮」長野県諏訪郡下諏訪町193

主祭神:八坂刀売之命(やさかとめのみこと;建御名方命の妃

2015-08-05_0072.JPG私が訪れた時は、偶々だったのかも知れないが参拝者が非常に少なく、静かな境内を散策することができた。境内はそこそこの広さを持ち、綺麗にされていた。鳥居を潜ると正面に「神楽殿」があり、出雲大社を思わせる大繩が吊るされていた。これは主祭神の夫が大国主命の子であり、出雲の出身ということに由来しているのであろうか。

2015-08-05_0073.JPG2015-08-05_0080.JPG御柱は「春宮一之御柱」「春宮二之御柱」の2本を確認した。

2015-08-05_0078.JPG2015-08-05_0079.JPGその後に「幣拝殿」があり左右には「左右片拝殿」がある。説明書きによれば「諏訪大社下社春宮 幣拝殿(へいはいでん)・左右片拝殿(さゆうかたはいでん) 重要文化財 昭和五十八年十二月二十六日指定 諏訪大社は建御名方神(たけみなかたのかみ)と八坂刀売神(やさかとめのかみ)を祀り、上社は建御名方神(彦神)を、下社は八坂刀売神(女神)を主祭神としている。 下社の祭神は、二月から七月まで春宮に鎮座し、八月一日の御舟祭で秋宮に遷座し、翌二月一日に春宮に帰座される。下社の中心となる建築は、正面中央にある拝殿と門を兼ねたような形式の幣拝殿、その左右にある回廊形式の片拝殿、それらの背後にある陶材宝殿からなる。東西の宝殿は茅葺・切妻造、平入の簡素で古風な形式を持ち、寅申の七年ごとの御柱大祭で新築する式年造替制度がとられている。右のような社殿形式は諏訪大社に特有のものであり、またその幣拝殿と左右片拝殿に似た形式は、長野県内の諏訪神を祀るいくつかの神社でも用いられている。 現在の春宮の幣拝殿は安永八年(1779)に完成したと考えられる。大工棟梁は、高島藩に仕えた大工棟梁伊藤儀左衛門の弟である柴宮(当時は村田姓)長左衛門矩重(延享四年・1747~寛政十二年・1800)であった。 幣拝殿は、間口の柱間が一間、奥行が二間で、背後の壁面に扉口を設ける。二階は四方が吹放ちで、屋根は切妻造、平入の檜皮葺で、正面は軒唐破風をつける。 左右の片拝殿は、梁行の柱間が一間・桁行が五間で、屋根は、片流れの檜皮葺である。 幣拝殿の建築様式の特徴は、各所につけられた建築彫刻の数の多さとその躍動感にあふれた表現である。正面の腰羽目の波、虹梁の上の牡丹、唐獅子・唐破風内部の飛竜・一階内部の小壁の牡丹・唐獅子・扉脇の竹・鶏で名作が多く、建築彫刻の名手である柴宮長左衛門の腕前が良くうかがえる。 信濃国一之宮 諏訪大社 下諏訪町教育委員会とされている。


2015-08-05_0083.JPG2015-08-05_0088.JPG大社の裏手には小さな川が流れ、その川に沿って上流に歩くと「万治の石仏」がある。そこに伝えられる伝説が解説されていた。「万治の石仏と伝説 南無阿弥陀仏万治三年(1660)十一月一日 願主明誉浄光心誉廣春 伝説によると諏訪大社下社(春宮)に石の大鳥居を造る時この石を材料にしようとノミを入れたところ傷口から血が流れ出したので、石工達は恐れをなし仕事をやめた(ノミの跡は現在でも残っている)その夜石工の夢枕に上原山(茅野市)に良い石材があると告げられ果たしてそこに良材を見つける事ができ鳥居は完成したというのである。石工達は、この石に阿弥陀如来をまつって記念とした。尚、この地籍はこの石仏にちなんで古くから下諏訪町字石仏となっている。 下諏訪町」

2015-08-05_0090.JPG<下社>「秋宮」長野県諏訪郡下諏訪町5828

主祭神:建御名方神(たけみなかたのかみ)
    八坂刀売神(やさかとめのかみ;建御名方命の妃

2015-08-05_0091.JPG当社の方が春宮よりも参拝者が多目であった。鳥居を潜りなだらかな坂を上ると正面には「根入りの杉」と名付けられた大木があり、「根入りの杉 この木は樹齢凡そ六~七百年で丑三つ時になると枝先を下げて寝入りいびきが聞こえ子供に木の小枝を煎じて飲ませると夜泣きが止まるといわれている」と解説されていた。

2015-08-05_0093.JPG2015-08-05_0101.JPGその後には、やはり出雲大社を思わせる大注連縄が下げられた「神楽殿」があり、その奥に「幣拝殿」と続いていた。

2015-08-05_0096.JPG幣拝殿、神楽殿の解説板には「重要文化財指定 昭和五十八年十二月二十六日指定 一、諏訪大社下社秋宮幣拝殿 この幣拝殿は安永六年(1777)に起工 同十年に落成した。工匠は諏訪出身の初代立川和四郎富棟で、彼は当時盛んになった立川流建築を学び、彫刻は中沢五兵衛につき、いくつかの名建築を残した。軒まわりその他に彫刻が多く華麗なのは当時の流行であり、それがすべて素木の生地を生かして清楚である。彫刻には独得のおおらかさがあり拝殿内部の竹に鶴などは代表作である。 重要文化財指定 昭和五十八年十二月二十六日指定 一、諏訪大社下社秋宮神楽殿 この神楽殿は二代立川和四郎富昌の作である。 彼は技をすべて父にうけ、天稟の才能と異常な努力で立川流の最高をきわめ、幕府から内匠の称号を許されたほどの名匠である。 この神楽殿は天保六年(1835)富昌五十四歳の作で、父の建てた華麗な幣拝殿の前に荘重なものをつくってよく調和させ、幣拝殿をひき立たせているところが賞賛される。 昭和六十年三月 長野県教育委員会 下諏訪町教育委員会」と説明していた。

2015-08-05_0097.JPGまた、幣拝殿の傍には次のような解説がなされていた。「信濃国一之宮 諏訪大社 秋宮 一、鎮座地 上社前宮(茅野市)・本宮(諏訪市) 下社春宮(下諏訪町)・秋宮(下諏訪町) 一、御祭神 建御名方神(たけみなかたのかみ) 八坂刀売神(やさかとめのかみ) 一、御由緒 旧官幣大社 我国最古の神社の一つであり 信濃国一之宮として朝廷や幕府の信仰が厚く 全国一万余の諏訪神社の総本社である。御祭神は 信濃国の国造りをなされ日本国土の守護神としてこの地にお鎮まりになられた。 一、祭事 上社例大祭(酉の祭)四月十五日 下社例大祭(お舟祭)八月一日 右の他年間二百余の祭事あり 式年造営御柱大祭 寅年及申年 御神紋 梶の葉(かじのは)


2015-08-05_0099.JPG2015-08-05_0103.JPG御柱は4本中2本の「秋宮一之御柱」「秋宮二之御柱」は確認できたが、残りは未確認である。


諏訪大社は、歴史が分からないほど古い神社の一つであり、その昔は原住民の祀る自然神の祠(ほこら)だったのではないかとも思われる。 


甲斐国一之宮 浅間神社(山梨県) [甲信越]

2015年8月2日

浅間神社(あさまじんじゃ)>(甲斐国一之宮)梨県笛吹市一宮町一ノ宮1684

旧社格: 国幣中社 

2015-08-02_0001.JPG2015-08-02_0003.JPG当社のHPにも書かれているが、当社は「あさまじんじゃ」と読む。霊峰富士山の神「木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)」 を祀る甲斐国(かいのくに)一の宮である。同じ「木花開耶姫命」を祀る駿河国(するがのくに)一の宮「富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)」の「浅間」は「せんげん」と読む。何故、同じ字で別の読み方をするのか少々不思議な気もするが、真偽のほどは置くとして「木花開耶姫命」は別名「浅間大神(あさまのおおかみ)」とも言われることから、甲斐の国の方はこれに因んだのかも知れない。
また、山梨県富士吉田市にある「北口本宮冨士浅間神社(きたぐちほんぐうふじあさまじんじゃ)」 は、やはり「木花開耶姫命」を祀り、同じ「甲斐の国」にあるため、何らかの関係(本宮、別宮的)があるのかも知れないと思ったが、どうも両社のHPを見る限り直接の関係はなさそうである。

中央道「一宮御坂IC」を出て甲州街道(R20)を渡り北側に進むと当社がある。一宮町一ノ宮にあることからも当社が一の宮であることが分かる。駐車場は二の鳥居左方向にあり、参拝者は無料である。

主祭神:木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)

木花開耶姫命は「古事記」では木花之佐久夜毘売、「日本書紀」では木花開耶姫と書き、天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫ににぎのみこと(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)の妃(嫁)でおおやまつみのかみ(日本書紀は『大山祇神』、古事記は『大山津見神』)の娘とされている。
神話では、瓊瓊杵尊が天孫降臨後に木花開耶姫命をみそめ、父の大山祇神に嫁に欲しいというと、大山祇神は木花開耶姫命の姉の磐長姫(いわながひめ)もともに嫁に与えるとしたため、瓊瓊杵尊は容姿の劣る姉の磐長姫だけを帰してしまった。大山祇神は瓊瓊杵尊の子孫繁栄を願い磐長姫を添えたが、これで天孫系の寿命は短くなるだろうとした。・・・という話になっている。 


常陸国一之宮 鹿島神宮(茨城県) [関東]

2015年5月27日
<このブログは、既に別ブログの「雑記帳」に掲載していたものを、今回の「一之宮巡り」に合わせて引っ越しさせました。予めご了承下さい。> 

香取神宮でも書いたが、香取神宮と鹿島神宮は利根川を挟んでほぼ対岸にあるといえる。利根川の北岸、茨城県にあるのが「鹿島神宮」である。
この2つの神宮は記紀にも出て来る”国譲り”の立役者「経津主神(ふつぬしのかみ)」と「 武甕槌神(たけみかづちのかみ)」をそれぞれ祀る。
具体的には「香取神宮」の主祭神が「経津主神」であり、「鹿島神宮」の主祭神が「武甕槌神」である。


鹿島神宮(かしまじんぐう)>(常陸国一之宮)茨城県鹿嶋市宮中 2306-1

旧社格: 官幣大社 

香取神宮から鹿島神宮へは、車で移動する分にはそれほど遠い距離ではない。何しろ利根川を挟んで隣同士のようなものである。とは言いながら、”川”というのはいつの時代にも大きな障害となるもので、現代でも好きな場所で川を渡ることはできない。大きく迂回して橋を渡らなければならない場合もある。
正直、私の目には、当神宮の方が少々立派に見えるのは偏見だろうか。

境内の入り口に当たる、寺では山門のような所に、通常なら祭神を守る神が鎮座しているものだが、ここでは丸木に稲妻のようなものが描かれていた。主祭神が雷の神ということから来ているものと勝手に理解したのでが、果たしてどうだろうか。


境内に入ると直ぐに本殿が右手に見えて来る。

お参りを済ませ更に奥に進むと、「奥宮」への参道が現れる。

その参道の途中左手にはシカを飼う鹿園(柵)が見え、柵の中には何頭かのシカが見えた。

鹿園の横に立てられた解説板には「親鸞上人旧跡 鹿園を中心とした一角の土提内は元鹿島山金蓮院神宮寺跡、降魔山護国院跡にして昔親鸞上人が訪れたと伝え、俗に「親鸞上人のお経石」と称して小石に経文の文字を書いたものが出土したことがあります。 なお親鸞上人は「経行信証(きょうぎょうしんしょう)」を著す為、一切経その他の文献閲覧の為にしばしば鹿島神宮を訪れたと伝えられます。当時鹿島神宮は関東有数の経典の宝庫でもありました。」と書かれていた。

鹿園から更に進むと右手に「奥宮」が現れる。

勿論奥宮の祭神も”武甕槌神”であり、社殿については「慶長十年(1605)に徳川家康公により本宮の社殿として奉納されたが、元和五年(1619)に二代将軍秀忠公によって現在の本宮社殿奉健されるに当り、現在地に引移して奥宮社殿となった。」と記されていた。

奥宮の反対側の坂を下ると坂を下り切った所に水の中に鳥居が立つ池が見えて来る。「御手洗(みたらし)」である。

この「御手洗」とは「古来、神職並びに参拝者の潔斎の池である 池の水は清く美しく澄み 四時淡々と流れ出てどのような旱魃(かんばつ)にも絶えることのない霊泉で神代の昔御祭神が天曲弓(あめのまがりゆみ)で掘られたとき 宮造りの折 一夜にして湧水したと伝えられ、大人小人によらず水位が乳を越えないという伝説により七不思議の一つに数えられている。 大昔は当神宮の参拝が この御手洗を起点として この池で身を清めてから参拝するので御手洗の名が今に残るのである。」と解説板に書かれている。

御手洗まで下った坂道を戻り、奥宮の裏の方に行くと「要石(かなめいし)」がある。
要石は柵の中の土に埋められた状態に見えるが、実際は正に地表に出ている氷山の一角のようである。

解説板に「要石 神世の昔 香島の大神が座とされた万葉集にいう石の御座とも 或は古代における大神奉斎の座位として磐座とも伝えられる霊石である。 この石 地を掘るに従いて大きさを加え その極まる所知らずという 水戸黄門仁徳録に七日七夜掘っても掘っても掘り切れずと書かれ、 地震押えの伝説と相俟って著名である。 信仰上からは、伊勢の神宮の本殿床下の心の御柱的存在である。」と解説されている。


主祭神: 武甕槌神

鹿島神宮の説明版には「御祭神 武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ) 創?(しめすへんにおのれ) 神武天皇御即位の年に神恩感謝の意をもって神武天皇が使を遣わして勅祭されたと伝える 御神徳 神代の昔、天照大御神の命により国家統一の大業を果たされ、建国功労の神と称え奉る。また、ふつのみたまのつるぎの偉徳により、武道の祖神、決断力の神と仰がれ、関東の開拓により農漁業、商工殖産の守護神として仰がれる外常陸帯の古例により縁結び安産の神様として著名である。 更に鹿島立ちの言葉が示すように、交通安全、旅行安泰の御神徳が古代から受け継がれている。」と書かれている。

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下総国一之宮 香取神宮(千葉県) [関東]

2015年5月27日

<このブログは、既に別ブログの「雑記帳」に掲載していたものを、今回の「一之宮巡り」に合わせて引っ越しさせました。予めご了承下さい。> 

香取神宮と鹿島神宮は利根川を挟んでほぼ対岸にあるといえる。利根川の南岸、千葉県にあるのが「香取神宮」である。
この2つの神宮は記紀にも出て来る”国譲り”の立役者「経津主神(ふつぬしのかみ)」と「 武甕槌神(たけみかづちのかみ)」をそれぞれ祀る。
具体的には「香取神宮」の主祭神が「経津主神」であり、「鹿島神宮」の主祭神が「武甕槌神」である。


香取神宮(かとりじんぐう)>(下総国一之宮)千葉県香取市香取1697

旧社格: 官幣大社 

香取神宮の正門(?)には観光バスが駐車できるような大きな駐車場があるが、もう一つ横の方に回り込むと、舗装されてはいないが、やはり結構な広さの駐車場がある。

この駐車場から、坂道を上ると神宮の鳥居が見える。表参道をショートカットする形で参道の最後辺りに出るのである。

参拝者の数は殆どなく、かなり静かな境内だった。

祭神を守る狛犬は木彫りで作られており、通常とは少々異なる趣となっていた。


主祭神: 経津主神

「香取神宮の御由緒」には次のように書かれていた。「大神は天照大神の御神勅を奉じて国家建設の基を開かれ国土開拓の大業を果たされた建国の大功神であります。故に昔から国民の崇敬非常に篤く、国家鎮護、国運開発の神、民業指導の神、武徳の祖神として広く仰がれて居ります。 御創?(しめすへんにおのれ)は神武天皇十八年と伝えられ現在の御社殿は元禄十三年の御造営にもとづくものです。 明治以降は官幣大社に列せられ毎年四月十四日の例大祭には宮中より御使が参向される勅祭の神社であります。」


はじめに

2015年10月31日

この度「一之宮巡り」 と称して、全国にある「一之宮」を巡り、その概要などを書き記すことにしました。ご存知の方も多くいらっしゃると思いますが、昔、全国に一之宮、二之宮、三之宮などに指定された神社が、各国毎に指定されていました。しかし、時代によってその指定が変更されたりしたため、我が”武蔵国”などでも4社ほど「一之宮」が存在することになっています。各々該当神社により言い分はあるようですが、素人の私には真偽を見分けることはできないし、見分ける必要もないと考え、一之宮と称される神社全てを訪問することにしました。

当ブログでは、カテゴリー分類を現在日常的に使用されている(・・・と思われる)地方毎に分け、更に旧国名(武蔵国、相模国 等) 毎にその地域に所在する神社をまとめて紹介するようにしました。
また、現状「マイカテゴリー」には全国全ての分類を作成している訳ではありません。しかし、順次訪問範囲に合わせて、その範囲を広げて行きたいと思っています。
「分類が間違っている」「その神社はその国ではない」などご指導、ご批判、ご鞭撻等戴ければ幸いです。宜しくお願い致します。

<2015年12月26日追記>
全国各地にに存在する各神社には「社格」というものがあり、古代では「延喜式(えんぎしき)」「六国史(りっこくし)」などがあり、近代では「近代社格制度」として明治政府が定めたものがあります。尚、古代の補足資料として「古語拾遺(こごしゅうい)」も参照される場合があるようです。
当ブログでは、分かる範囲で社格を記載するつもりですが、場合によってHPや資料がなく判明しない時は記載を省略させて頂きます。また「社格」についての詳細はリンクをご参照下さい。


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